こんばんはこんばんは。大学2年次後期とバイトが始まって1ヶ月半が経ちようやく慣れてきたところです。成人しました。酒が飲めるぞ。携帯を一人で契約できるぞ。年金払うぞ。
突然ですがどうも僕はやたら13という数字に好かれているらしく、人生の一大イベントみたいなものはだいたい13日です。その中で一番大きかった2002年8月13日からいままでの話をざっくり書いていこうかと思います。
不思議なもので、つい数年前までは幼稚園のころも鮮明に覚えていたのですが今となっては「覚えていたことを覚えている」程度にとどまります。おそらくあと数年もすれば2002年のことなどきれいに忘れてしまうと思います。これは僕の備忘録でもあります。
入院から退院まで
上で挙げた2002年8月13日、小学3年生の夏休みに腹痛で入院しました。腹痛で入院というと大げさにとらえられるかもしれませんが、病名は悪性リンパ腫、つまりはガンでした。かなり重かったようで、手術後に「数日遅れていたら死んでいたかも」と言われる程だったとか。入院の日に食べたいと親にせがんだ海老のチリソースを食べなくて本当によかったと思います。
最初は神奈川にある北里大学病院に入院、後に国立がんセンター(現 国立がん研究センター)中央病院に転院しました。これが同年9月1日。転院には担当の医師が同行し救急車でサイレンを鳴らして首都高を30分程度で抜けました。(30分は多少盛っているかもしれませんが、、)
手術を含めほとんどの治療はがんセンターで受けました。当然がんですので抗がん剤の投与も受けました。これは失敗で、副作用が強くそれ以上続けることが困難になりました。髪が全部抜けて口内炎でなにも食べられなくなったのがこのころです。ここから約1年、翌年の10月ごろまで治療は中断されました。というのも造血幹細胞移植を受けることになったからです。造血幹細胞移植は平たく言えば骨髄移植のことです。臍帯血移植またはドナーさんからの骨髄移植の2種類の選択肢があり、前者の方が適合しやすいが効果が出づらく、後者はその逆であると聞きます。あくまで聞いた記憶があるだけですので、多少事実と異なるかもしれません。しかし実際、日本における非血縁者間での骨髄移植は平成5年(骨髄バンク設立後初の移植)からの累計で約16,000件と実施例ですらかなり少ないものです。*1幸いにも僕は後者、型が適合したドナーさんがいらっしゃり、提供いただきました。通常、移植と言えば開腹開胸などメスを入れるものを想像しがちですが、移植患者は採取された造血幹細胞を点滴や輸血と同様に血管に流し込みます。あらかじめ投薬により白血球などを死滅させGVHD(造血幹細胞移植に伴う拒絶反応)を抑えるなどの処置があるので、準備にだいたい1ヶ月程度かかったかと思います。クリーンルームは想像ではだれも入れない檻のようなものと認識していたのに対し、実際は親の出入り程度なら普通にできる緩いものでした。(少なくとも当時はそうでした。今は多少厳しいかもしれません。)
移植は無事成功しました。業界用語で生着と言うそうです。移植そのものは成功していても、GVHDに苦しむ日々は続きます。GVHDを抑えるための免疫抑制剤(シクロスポリン)を服用し続ける毎日は中学生の中ごろまで続きました。一番症状が悪化したのが入院中の2003年11月前後。腸の内膜(?)が完全に崩れている状況だったと聞いています。この間なにも食べることができませんでした。かろうじて復活して12月は重湯から1分粥、3分粥…と少しずつ米の形をしていき、最後に普通の白米になったのが12月の後半。そこから半月の1月中旬にはベッドに余りがないということで半ば強制的に退院させられました。
1年半にわたる入院生活はそれだけで本が2冊は書けるほどに重みのある期間であったと思います。
パソコンを触りはじめたきっかけ
僕がパソコンを触ったのは入院したから、と言ってもよいのではと思います。前述の通り半ば強制的に退院させられたため3ヶ月近く自宅で療養生活を送ることになりました。余りにも暇でずっとゲーム(ポケモンのRG/FR, ロックマンエグゼ4あたり)で遊んでいたのに見かねてか、親がiMacを与えてくれたのがきっかけです。与えてくれたといっても父のお下がりのiMac DVでしたが。
入っていたAdobeのGoLiveというソフトウェアを使ってWebサイトをつくり始めJavaScriptにも少しだけ手を出しました。向上心がないのでただひたすらにゴミコンテンツを生成していました。もうデータは消えてしまっているので当時のものは見られません。どうせゴミはゴミです。
ただ一つ言えるのは元々段ボール工作などでよく親に怒られるほど物を作るのがすきだったということ、向上心がなくてもパソコンでモノを作るのは楽しく案外長く続いたということです。入院していなければこの頃から今までパソコンを触り続けてはいなかっただろうと思っています。
中学から高校
中学生になりました。一応中学受験しましたがすべて落ちました。あと受験期間にインフルエンザにかかりました。病気ばっかりはどうしようもないです。今思い返しても別に悔しくもなんともないです。なので近所の公立中学校に通いました。最初は吹奏楽部に入っていましたが、やめました。そのかわりに1年の9月くらいからバイオリンを習い始めました。
性格とか割と尖っていて面倒くさい人間だったのを覚えています。今は十分マシな方です。とにかく、面倒くさかったので1年のころは黒歴史です。中一病です。当時のみなさまにおかれましては本当に申し訳ないと思っております。
中二の冬からPerlを始めました。プログラミングにマトモに手を染めるのはここからです。とりあえずアクセスカウンタとかいろいろゴミを生成していました。このころのコードも全部消えたのではと思います。もしかしたらどこかに残っているかも。
だいたいこのころ免疫抑制剤の服用をやめて、寛解と判断できる状態には回復していたと思います。もうこの当たりの記憶が定かでないので時期に多少の前後はあるかもしれません。ここから今まで免疫抑制剤は服用していません。何回か検査を続けた中で再発も認められていません。おそらくこれからも大丈夫であると思います。もちろん齢を重ねることでまたガンになるかもしれませんがそれは小児がんとは全く別の原因によるものでしょう。
高校から大学
それなりに勉強した結果、湘南高校という神奈川県ではそれなりに名の通った高校に入学しました。部活は絃楽部。弦ではなく絃です。絃楽部。今度は3年間、きっちり所属していました。下手でもソロなどいろいろな経験をさせていただきました。他にも文芸部と写真部に所属していました。が、写真部はあまり活動せず(そもそも活動的でなかった)文芸部に至っては一回も部室に顔を出さず活動もせずという真の幽霊部員を決め込みました。ミスター幽霊部員と呼んでもらっても構いません。文学的センスのかけらもない僕ですから、いたしかたなかったことと思います。
学外では「ものづくり寺子屋」の立ち上げをしました。主にプログラミングのワークショップをする団体です。Twitterで知りあったid:mactkgと一緒に始めました。同時に京都ではid:pastakが同じ趣旨で活動する「京都クリエイティブワークショップ(きょーくりっ)」を立ち上げました。というかそっちが親団体みたいなものです。これは今でも続いていて自分の中で占める割合が大きくなりつつあります。立ち上げからもう4年近く経ったと思うと多少感慨深いものがあります。最近よく僕が京都に行くのはこれが理由です。あと、高校3年の合唱コンを休んだのもこれが理由です。
勉学の面では余り秀でてはいませんでした。というか全く秀でていませんでした。中学で得意だったはずの数学が苦手になりました。本当によくないことだ。いまでも引きずっています。センターで数IA/IIBそれぞれ半分しかとれなかった…みたいな感じです。ウッ。あとは倫理政経はセンターの前日、1/13に初めてテキストを開いて一読しただけとか。受験に対する態度がまるでなってないですね。センター後、さすがにまずいと思い数物をひたすら解いた結果、国立大学法人電気通信大学情報理工学部情報・通信工学科に合格しました。国立大学です。国立にある大学じゃないです。あと東京電機大でもないです。ちなみに、電通大の受験前日にScratchをiPhoneから操作するコードを書いていました。GitHub*2に残っています。浪人も考えましたが絶対に勉強しないと思い電通大を出願しておいて本当によかったと思います。
大学でやってきたこと
大学でやったことの中で一番大きかったのはDentoo.LTの立ち上げでしょうか。Dentoo.LTは所属しているサークル「MMA」で主催するイベントで、ライトニングトークという短いプレゼンを何人かで連発して行う弁論大会みたいなものです。宗教的/公序良俗に反するものでなければネタは特に制限していません。おかげさまでそれなりに成長して回数を重ねています。直近では11/10にも開催しました。サポートしていただいている皆様には感謝しています。
他にも(実は)管弦楽サークルに所属していたり(現在は休部中)、大学総務課広報係の元で学生スタッフとしてほぼ無給労働していたり(そのかわり高価な機材で入学式/卒業式のネット配信をさせてもらったり)、あとはキャリア教育の一環でワンセグ放送に関わってコンテンツ生成部分を担当したり。そういう面白そうなことを延々と続けています。複素関数論の単位は轟沈しましたが授業外のことが面白いので気にしません。留年しなければいいのです。留年しそうですけど。
これからやること
大学に入る前は自然言語処理に興味がありましたが最近は薄れつつあります。方向性も定まらなくなってしまったのですべてが振り出しというか何をするべきかすらわからないという状況。とりあえず当分はアルバイトとキャリアで制作しているワンセグのコンテンツジェネレータに精を出せばよいのかと思います。もちろん他にも重要なプロジェクトを抱えているので、そちらもがっつり進めていきたいとおもいます(@関係者各位)。
こうして振り返ってみるとかなり多くの方に支えていただいていたのだなぁと改めて思います。月並みですけど。とにかく、これからはそういう方を含めてみなさまに価値を提供しつづける存在になれるよう精進していきたいと考えています。
さいごに
ここまで駄文におつきあいいただきありがとうございました。今年も残りわずかではありますがいろいろとイベントが控えており、着々と進行中です。まさわだ先生の次回作にご期待ください。
これが言いたかった。